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2021-02

なんでだまってたの?

ところで今は、神奈川に暮らしています。沖縄の設計事務所に在籍したまま。とある仕事の関係でこちらに赴任になって、もう数年経っています。

先日知人に誘われて、息子共々釣り船に乗りました。カワハギを少々。我が息子氏はこれが楽しかったのでしょう、その後釣りに行きたくてしょうがない様子。たまたま入った100円ショップに釣り竿やルアーが売っているのを発見し早速購入しました。竿にリール、道糸もついて1000円なり。ルアーも100円です。「投げる練習」と称して近くの海へ。まあ釣れませんよね。その後どうせ行くなら釣れた方がいいだろうと、ネットで情報収集しました。ワタクシが小学生の時分とは情報環境が全く変わっていて、当惑するばかりですね。なにせ用語が全然。ジギングくらいは聞いたことがあったのですが、エギング、アジング、メバリング、タコングなんて言い方もアリング。何だこりゃという感じでした。糸の種類や太さについて検索するだけでも発信元によって色々話が違う。これは大変な領域に踏み込んでしまったなと途方に暮れつつも、どう考えれば良いのだろうとモヤモヤしていると。

あるじゃないですか。

釣りをしていて考えたこと 佐藤秀峰

読みながら、そうだそうだと同感してしまいました。読み終わってふと、どんな人が書いているのかとチェックしてみると、どうやら漫画家さんらしい。あいにく知らなかったのですが、かなり読まれている人なんですね。文末まで進むと漫画界に引きつけてお話を展開されていてこれは面白いなと感じました。詳しいことは知らないのですが、キャリアの中ではかなり大胆に発言・行動されてきた方のようです。偶然出会った記事ですが新鮮な思いがしました。この記事は、今でも続編が書かれているようで、最近の投稿などは釣った魚の料理が非常に美味しそうです。他にも電子出版に関することなど随分挑戦的な取り組みをされているみたいですね。

ところでこのブログを何故10年も放っておいたのか。自分でもはっきりしないのですが、おそらく会社員(となった私)が実名で問題なく書ける事と、つい書きたくなってしまう事との線引きに気疲れしてしまったからかも知れません。事務所経営していたときだって気遣いなく書いていたわけでもないのですが、身近な誰かに何か言われる事を恐れていたのでしょう。でもまあそれは萎縮しすぎだなと。我ながら。

あと、それなりに人数がいて「会社形式」の設計事務所に勤める人が、何を考えているのかあまりオープンになっていないような気がするので、多少ともお伝えできれば、これからそういう組織で「建築をやる」方にもご参考になるかもと。当然「問題の無い範囲」で、ですが。

「建築をやっている」のこと

「建築をやっている」という表現があります。

建築設計などを行なっているという意味なのですが、一般にはどうということもない表現かもしれません。しかし、建築の設計を仕事としている、もしくは日本で建築の専門教育を受けた人にとっては非常に厄介な、これをめぐってグルグルと色々なことを考えてしまう、そんな言い回しです。検索するといろんな議論が見つかると思います。そのときに言う「建築をやる」とは、お伝えするのがやや難しいのですが、ハイレベルな建築に関わる、ということを概ね意味しているかと。まあ実に曖昧な表現なのですが、何だか気持ちが動いてしまう。

建築家という言葉も同様ですね。賞賛と非難、又は羨望を含む複雑な表現かもしれません。。。。などと考えているのは本人達の自意識過剰か。設計の仕事をされている方はもしかしたら経験があるかもしれませんが、他の分野の方からさりげなくそう呼ばれることがあって複雑な気持ちになるとか。

さて自分は「建築をやる」ことができているのかいないのか。などと考え始めてしまうとよくわからなくなって、まあいいじゃないか、ともかく目の前の仕事を一生懸命やろう。と、いうことに大抵なります。そこにこだわるのも不毛な気もしてウヤムヤにしてきたのですが、サスガにいい歳してこのままというのも気持ちが悪いので、この問題にケリをつけておきたい。

と思い、色々参考にしながら考えていたら、あるじゃないですか。

『文化生産と商業主義 : 分析フレームとしての「演劇生産のエコロジー」』佐藤 郁哉 1996

これは主として演劇を扱いながら、文化・芸術と商業とについて論じたもののようですが、上記のような「建築にまつわるモヤモヤ」にも解説を与えてくれるような気がします。結局、このモヤモヤは一つに建築が芸術と言えるかどうかに端を発して拡がっているのかも知れません。日本の建築史上も(今もどこかで?)、度々この「建築が芸術かどうか」が論争の種になったようです。

随分簡単なようですが、でももうこれで気持ちに決着がついた。漠然とした呪縛から解かれました。特に上記論文p72(PDFで6ページ目)後段の以下の箇所で憑き物が落ちました。いや、キチンと検証し、言葉にしてあるということが、こんなにも晴れやかな気分にしてくれるとは。気持ちの良い先輩にスパッと叱られたようで、久しぶりに心に響きました。こういうのを学問の意義というのでしょうか。

 以上の一連の研究は、商業主義の問題を中心として芸術と商業の関係性について検討する際には、芸術、商業という概念について、それぞれを抽象的で総称的なカテゴリーとして論ずることがほとんど無意味であることを示唆している。すなわち、芸術にしろ商業にしろ、それぞれ種々雑多な活動を含むだけでなく、その意味付けも多様であり、したがって、「芸術(一般)と商業(一般)が果たして対立する原理か否か」という問いは全くと言っていいほど意味をなさないのである。商業主義の問題について検討するには、どのようなタイプの芸術のどの側面が、商業的なるもののどのような側面と実際にいかなる関係を持っているかという問題を明らかにするとともに、それぞれどのような意味で「芸術」ないし「商業」と呼ばれているのかを吟味していかなければならない。

また、同論文Ⅱ章以降がいわば本論だと思いますが、非常に興味深く読みました。「演劇」または「芸術」を「建築」に置き換えて、そのまま読んでみたいという誘惑に駆られますが、そういうことをしてはいけないとも書いてあるようです。ご注意を。でも、「建築をめざす」みたいなお若い方は早めにお読みになることを勧めます。ワタクシがそうだったように、この件、気持ち悪くハマっている人、少なくないと思います。

さいかい

約10年ほおっておいたのですが、また書いてみようと思い立ちました。

書いてみますが、投稿(公開)されるのは1年後です。

何故そうするのかは自分でもはっきりわからないのですが、

やっているうちにはっきりしてくるかもしれない。

ともかく、またはじめてみます。

20210205

などと書いてしまいましたが、それはなんだか随分ひねくれた感じだなと反省し思い直しました。

やっぱり普通に公開しながら進めることにします。

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