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手帖

なんでだまってたの?

ところで今は、神奈川に暮らしています。沖縄の設計事務所に在籍したまま。とある仕事の関係でこちらに赴任になって、もう数年経っています。

先日知人に誘われて、息子共々釣り船に乗りました。カワハギを少々。我が息子氏はこれが楽しかったのでしょう、その後釣りに行きたくてしょうがない様子。たまたま入った100円ショップに釣り竿やルアーが売っているのを発見し早速購入しました。竿にリール、道糸もついて1000円なり。ルアーも100円です。「投げる練習」と称して近くの海へ。まあ釣れませんよね。その後どうせ行くなら釣れた方がいいだろうと、ネットで情報収集しました。ワタクシが小学生の時分とは情報環境が全く変わっていて、当惑するばかりですね。なにせ用語が全然。ジギングくらいは聞いたことがあったのですが、エギング、アジング、メバリング、タコングなんて言い方もアリング。何だこりゃという感じでした。糸の種類や太さについて検索するだけでも発信元によって色々話が違う。これは大変な領域に踏み込んでしまったなと途方に暮れつつも、どう考えれば良いのだろうとモヤモヤしていると。

あるじゃないですか。

釣りをしていて考えたこと 佐藤秀峰

読みながら、そうだそうだと同感してしまいました。読み終わってふと、どんな人が書いているのかとチェックしてみると、どうやら漫画家さんらしい。あいにく知らなかったのですが、かなり読まれている人なんですね。文末まで進むと漫画界に引きつけてお話を展開されていてこれは面白いなと感じました。詳しいことは知らないのですが、キャリアの中ではかなり大胆に発言・行動されてきた方のようです。偶然出会った記事ですが新鮮な思いがしました。この記事は、今でも続編が書かれているようで、最近の投稿などは釣った魚の料理が非常に美味しそうです。他にも電子出版に関することなど随分挑戦的な取り組みをされているみたいですね。

ところでこのブログを何故10年も放っておいたのか。自分でもはっきりしないのですが、おそらく会社員(となった私)が実名で問題なく書ける事と、つい書きたくなってしまう事との線引きに気疲れしてしまったからかも知れません。事務所経営していたときだって気遣いなく書いていたわけでもないのですが、身近な誰かに何か言われる事を恐れていたのでしょう。でもまあそれは萎縮しすぎだなと。我ながら。

あと、それなりに人数がいて「会社形式」の設計事務所に勤める人が、何を考えているのかあまりオープンになっていないような気がするので、多少ともお伝えできれば、これからそういう組織で「建築をやる」方にもご参考になるかもと。当然「問題の無い範囲」で、ですが。

「建築をやっている」のこと

「建築をやっている」という表現があります。

建築設計などを行なっているという意味なのですが、一般にはどうということもない表現かもしれません。しかし、建築の設計を仕事としている、もしくは日本で建築の専門教育を受けた人にとっては非常に厄介な、これをめぐってグルグルと色々なことを考えてしまう、そんな言い回しです。検索するといろんな議論が見つかると思います。そのときに言う「建築をやる」とは、お伝えするのがやや難しいのですが、ハイレベルな建築に関わる、ということを概ね意味しているかと。まあ実に曖昧な表現なのですが、何だか気持ちが動いてしまう。

建築家という言葉も同様ですね。賞賛と非難、又は羨望を含む複雑な表現かもしれません。。。。などと考えているのは本人達の自意識過剰か。設計の仕事をされている方はもしかしたら経験があるかもしれませんが、他の分野の方からさりげなくそう呼ばれることがあって複雑な気持ちになるとか。

さて自分は「建築をやる」ことができているのかいないのか。などと考え始めてしまうとよくわからなくなって、まあいいじゃないか、ともかく目の前の仕事を一生懸命やろう。と、いうことに大抵なります。そこにこだわるのも不毛な気もしてウヤムヤにしてきたのですが、サスガにいい歳してこのままというのも気持ちが悪いので、この問題にケリをつけておきたい。

と思い、色々参考にしながら考えていたら、あるじゃないですか。

『文化生産と商業主義 : 分析フレームとしての「演劇生産のエコロジー」』佐藤 郁哉 1996

これは主として演劇を扱いながら、文化・芸術と商業とについて論じたもののようですが、上記のような「建築にまつわるモヤモヤ」にも解説を与えてくれるような気がします。結局、このモヤモヤは一つに建築が芸術と言えるかどうかに端を発して拡がっているのかも知れません。日本の建築史上も(今もどこかで?)、度々この「建築が芸術かどうか」が論争の種になったようです。

随分簡単なようですが、でももうこれで気持ちに決着がついた。漠然とした呪縛から解かれました。特に上記論文p72(PDFで6ページ目)後段の以下の箇所で憑き物が落ちました。いや、キチンと検証し、言葉にしてあるということが、こんなにも晴れやかな気分にしてくれるとは。気持ちの良い先輩にスパッと叱られたようで、久しぶりに心に響きました。こういうのを学問の意義というのでしょうか。

 以上の一連の研究は、商業主義の問題を中心として芸術と商業の関係性について検討する際には、芸術、商業という概念について、それぞれを抽象的で総称的なカテゴリーとして論ずることがほとんど無意味であることを示唆している。すなわち、芸術にしろ商業にしろ、それぞれ種々雑多な活動を含むだけでなく、その意味付けも多様であり、したがって、「芸術(一般)と商業(一般)が果たして対立する原理か否か」という問いは全くと言っていいほど意味をなさないのである。商業主義の問題について検討するには、どのようなタイプの芸術のどの側面が、商業的なるもののどのような側面と実際にいかなる関係を持っているかという問題を明らかにするとともに、それぞれどのような意味で「芸術」ないし「商業」と呼ばれているのかを吟味していかなければならない。

また、同論文Ⅱ章以降がいわば本論だと思いますが、非常に興味深く読みました。「演劇」または「芸術」を「建築」に置き換えて、そのまま読んでみたいという誘惑に駆られますが、そういうことをしてはいけないとも書いてあるようです。ご注意を。でも、「建築をめざす」みたいなお若い方は早めにお読みになることを勧めます。ワタクシがそうだったように、この件、気持ち悪くハマっている人、少なくないと思います。

さいかい

約10年ほおっておいたのですが、また書いてみようと思い立ちました。

書いてみますが、投稿(公開)されるのは1年後です。

何故そうするのかは自分でもはっきりわからないのですが、

やっているうちにはっきりしてくるかもしれない。

ともかく、またはじめてみます。

20210205

などと書いてしまいましたが、それはなんだか随分ひねくれた感じだなと反省し思い直しました。

やっぱり普通に公開しながら進めることにします。

more is more

「夢の島」-現代沖縄における風景と観光-(地域計画特論テキスト)安藤徹哉 琉球大学 2007
・観光とは、何かに対してあこがれ(勘違い)のまなざしを向けること。
・戦後復興期、沖縄にアメリカ文化が米軍基地を通して入ってきた。
・70年代に入ると、「異国の雰囲気」のタレントがヒット
・1975年沖縄国際海洋博覧会が経済的効果と社会・文化的効果の相互作用を生み、リゾート開発は成功したが、海の商品化を招く結果ともなった。
・1980年、象設計集団は集落生活空間を調査再解釈し「沖縄らしい」近代建築の傑作を生み出した。この時期に沖縄は、文化的に一つのピークを迎えていた。
・80年代以降に、沖縄はマスツーリズムの時代を迎え、TV番組や首里城復元・沖縄サミット等を伴って沖縄ブーム・癒しの島ブーム到来。しかし統計データに示される沖縄社会の現実は、メディアの伝える姿とは異なる。
・きちんとした生活空間があって初めて観光地も生きてくる。表層的な観光地の景観と日常的な生活の場の風景はある程度、分けて考える必要がある。

近代以降の紅型と伝統 : 「沖縄の色合い」をめぐって / 村松 彰子 沖縄県立芸術大学 2006
・「在来の技術」だった「紅型」が明治以降に「伝統工芸」化や「土産物」化し固定的規範化を招いた。(「伝統の創造」)
・一方「本物の伝統」を受け継ぐ作り手たちは生活・慣習に沿って柔軟性・融通性を持っている。
・「創造された伝統」における真贋判定と対照的に、
「本物の伝統」では、受動的な「生活の場」における「伝承の真正性」が、「本物らしさ」を決める。

■双方興味深く読みました。
オリエンタリズム,観光化,土産物化等に対して、「きちんとした」「生活の場」を見直す姿勢が重要だということでしょうか。確かに。ただ、ここ沖縄では、国際通りを歩くまでもなく、その日常生活の場や言説自体がオリエンタリズムに満ち溢れてしまっているように見える。そのような「生活の場」が再生産され,増殖し始めている。

もはや「見つめ直せ」ば直すほど、どんどんハマっていくのです。

スカボロー・フェア

「少し間が空きましたが」などと言いながら始まるブログ記事のなんと多いことよ。

次に進みます。

戦後沖縄の近代建築における地域性の表出 / 小倉暢之,琉球大学 2006

戦後、米軍によってコンクリート建築が導入され、
気候・生活にあわせて「沖縄らしく」なった。

本土復帰運動や米軍統治の錯綜過程において、
沖縄文化のアイデンティティ再燃が起こり、建築分野では
琉球政府立博物館、那覇市公会堂の設計競技および建設が行われ、
これによって、「ヒンプン・アマハジ・赤瓦」が沖縄らしい建築モチーフとして
その後のデザイン展開に影響を与えつつ定着した。

■政治的事情によって導入された技術だが、
それが「現にそこに住んでいる人々」によって工夫されて使われた、
ので、その場所(沖縄)「らしさ」を形成した。
■政治的事情によって刺激された文化的アイデンティティが、
事件と議論を通じて共有された。

政治と「沖縄らしさ」は切り離せないということでしょうか。
もうひとつ、
琉球政府立博物館における昭和42年(1967)日本古美術展について : その文化的政治的含意
喜屋武 盛也 沖縄県立芸術大学 2007

米軍統治下の外国・沖縄における、「日本美術史」の(再)形成。
日本政府による明治以来の官製美術史プロジェクトの戦後的形態、について。

■ややこしいですが、
琉球を文化的に日本から切り離そうと、
米軍によって近代性を(「沖縄らしさ」でなく)強調された博物館で行われた、
日本政府による日本古美術展の政治的意味。
沖縄を舞台に日米政府の文化的≒政治的小競り合いが繰り広げられた様子について。
その争い以前に、当の琉球は米軍に簡単に抑えられています。

ほんと、ややこしいですね。

ところで、先日
文化ナショナリズムの社会学―現代日本のアイデンティティの行方  吉野 耕作 (著)

という本を読みました。

旧大宜味村役場

先日、用事のついでに大宜味村役場を見てまいりました。
沖縄県内に残存する最古の鉄筋コンクリート造建物です。

リートフェルトのシュレーダー邸完成の次の年、
グロピウスによるデッサウのバウハウス校舎のできたころ、
東京では、山田守の東京中央電信局が竣工した1925年(大正14年)完成の、旧大宜味村役場です。
現役の庁舎のすぐ隣に立っています。


設計は清村勉。

中央2階の8角形の部分は、

村長室だったそうです。

一生懸命目地を切る様子がいじらしい。


その村長室へ上がる階段

階段室の窓

中央の交差部分の1階の様子。

以前は倉庫状態だったそうですが、この春からは村史編纂室として利用され、この中央部分はこれから整備して資料室として公開されるらしい。ということは「旧」役場を返上して、もう一度「役場」になるわけですね。

裏から見たところ。

これからも、大事に使って欲しい、かわいらしい建物です。

褒めて伸ばすというけれど

どんどん行ってみます。
●大正期沖縄県下における公共建築の特性 : 「琉球」的なる風土との関係 / 川島 智生 神戸女学院大学 2008

 

・明治大正期の沖縄「近代建築」に見いだせる琉球風(沖縄らしさ)について
・1919に鉄筋コンクリート造 那覇区役所竣工(着工1917年) 設計:秦泰親 顧問:武田 五一(1872-1938)
・同区役所は武田五一の関与により「トロピカル・スパニッシュ・ミッション」スタイルに
・当時の武田五一は各様式の融合を考えていた、
・スパニッシュ・ミッションは瓦で勾配屋根なので日本建築に融合しやすい
・沖縄は亜熱帯だから、亜熱帯気候特有の「スパニッシュ・ミッション」すなわち
「トロピカル・スパニッシュ・ミッション」に日本趣味を加味することがふさわしい、 と武田は考えた。
・屋根は赤瓦葺き、東西融合様式にセッセッション―イスラム様式も加味

 「近來東京市に建築せられつつある商館建築の形式に就て」1909
p372
「近頃では両派の合同が次第に行はれて、大分世の中が面白くなりかかって来た、
建築界にも早く此様な時期の来るのが望ましい」
「格好形式の事は此の位にして置いて第三の色について云ふ・・・と」
「パナマ太平洋萬國博覽會所見」1915
ラテン系の様式を集めた会場構成を評価。
1.ラテン系様式の祖はイタリアである
2.イタリアの気候は「半熱帯」で、会場のあるカルフォルニアのそれと似ている
3.ラテン系の様式としては伊・仏・西と3種あってそれを組み合わせ、
さらに東洋趣味を加えてあり、パナマ海峡開通を記念するにふさわしい。

・1916年頃 県会議事堂兼公会堂竣工
1914年頃設計:中條精一郎(1868-1936) 洋風ルネサンス式木造2階建
・昭和初期から鉄筋コンクリート造に屋根付校舎が出てくる。
他府県にはない事例で、しかも(赤?)瓦葺き。
・1917年 県立工業徒弟学校校舎 設計:樋口敏彦 洋風独逸式木造2階建・赤瓦葺
・1928年 県立第三中学校 屋根が瓦葺き
・1931(30?)年 県立第一中学校 洋風鉄筋コンクリート屋根が(赤?)瓦葺き
・1917年 那覇バプティスト教会 設計:ヴォーリズ
「西洋造りに琉球風を加味せる風変わりの建物」
・赤瓦は上流階級に許された素材=「いいもの」だった。
・しかも気候に対する必然があった。→沖縄の風土にふさわしかった。
・他府県出身者からは、独特の文化として肯定的に評価された。

■明治大正期に他の地域から来た人々に赤瓦葺がよいものだと評価され、
さらに「沖縄らしい」ものだと認められたうえで、その人々によって
新しい使い方が探求され始めた。

ということですね。その当時現地沖縄の人々はどう感じていたのでしょう。
まあ、褒めてくれるんだから誇らしかったのでしょう。か。どうかな。

また切り張り年表してみました。
・1871 泉布観 設計:トーマス・ウォートルス
・1872 富岡製糸場 設計:アンリ・ブリューナー
・1883 鹿鳴館 設計ジョサイア・コンドル
・1891 ニコライ堂 設計:ジョサイア・コンドル
・1896  日本銀行 設計:辰野金吾
■1897 沖縄初の洋風木造建築の南陽館建造
■1901 沖縄銀行行舎完成
・1903 フランクリン街のアパート(世界最初期の鉄筋コンクリート建築)
設計:オーギュスト・ペレ(1874-1954)
■1907 第百四十七銀行竣工 煉瓦造
■1908 石垣島測候所 煉瓦造2階建
・1910 京都商品陳列所 武田五一 「我国最初の鉄筋混凝土造建築物」
・1913 三井物産横浜ビル 鉄筋コンクリート造4階建 地下1階 設計:遠藤於菟(1866-1943)
■1916年頃 県会議事堂兼公会堂竣工 設計:中條精一郎(1868-1936) 洋風ルネサンス式木造2階建
■1917年 那覇バプティスト教会 設計:ヴォーリズ
■1919 那覇区役所 設計:秦泰親 顧問:武田 五一(1872-1938)
■1925 金武小学校大宜味村役場庁舎が竣工 鉄筋コンクリート造 設計:清村勉 施工:金城組
■1926  石垣島測候所が鉄筋コンクリート造となる。これかな?
■1929 伊江村公益質屋 設計:清村勉
■1931(30?)年 県立第一中学校 洋風鉄筋コンクリート(赤?)瓦葺き屋根

コンドルは飛んでいく

次に行きます。
●近代における「琉球建築」の成立と地域社会/ 登谷 伸宏 京都大学 2008

2年前に書かれたもののようです。

・伊東忠太が沖縄で学術調査(1924)を行い、
「日本建築」との関係において「琉球気分」による「琉球建築」を位置付けた。
・先行する伊波東恩納の琉球文化研究と啓蒙は、類似の内容だったが一般に疑心を持たれていた。
・一方、帝大・伊東らの評価が地元県人に受け入れられたのは、
それと大和同化への関心と期待が一致したため。また内地人による説だったため。
・この調査を一因に、琉球古建築等の価値が見直されるようになった。

→大和同化への関心と期待すなわち「日琉同祖論」と考えていいのだろうか。
・日琉同祖論
・統合の言説としての日琉同祖論 石田正治 九州大学
・日琉同祖と沖縄人の個性: 伊波普猷論のための覚書 石田正治 九州大学

■要するに伊東忠太らの調査を、
日本と源流を同じくする琉球は少し変わった日本であって、
むしろ日本より日本らしい、源流としての日本であると、
琉球側はそう理解し歓迎した。

ということでしょうか。

何とも切ない感じがします。
アイデンティティについての議論は、曖昧な部分が残りがちである。
なのに当代の「知識人」が、何故それを言い出すかというと、
政治的な動機によってということになるのだろうか。

区別でなく差別や同化などというものは、大抵理不尽に都合によってするものであって、
だとすると、それをやめさせる為の訴えも理不尽にならざるを得ない。ということかしら。

ところで当時の状況は、

・1871-1873 岩倉使節団 欧米へ
・1872-1879 琉球処分
・1877 東京大学設立
・1879 辰野金吾 工部大学校卒業(東大建築1期生)
・1882 第1回沖縄県費留学生(沖縄県最初の学士・東京への「留学」)
謝花昇  (1865-1908:東大農学部)
岸本賀昌  (1868-1928:慶応義塾)
太田朝敷  (1865-1938:慶応義塾)
高嶺朝教  (1868-1939:慶応義塾)
今帰仁朝蕃(学習院?)
・1890 初の衆議院議員総選挙(内地)
東京美術学校「日本美術史」講義 岡倉天心(1863-1913)(日本美術史の起こり)
・1892-1908 第4代県知事 奈良原繁在職
・1892- 「日本佛寺建築沿革略」 石井 敬吉
・1893 「法隆寺建築論」  伊東 忠太(日本建築史学の起点)
・1894-1895 日清戦争
・1896 漢那憲和(1877-1950) 沖縄県出身者として初めて海軍兵学校に入学
・1904-1905 日露戦争
・1912 沖縄県に衆議院議員選挙法適用
・1914-1918 第1次世界大戦
・1916 「稿本日本帝国美術略史」:日本初の美術史本
■1924 琉球学術調査
伊東忠太 (1867-1954)当時57歳
鎌倉芳太郎(1898-1983)当時33歳
太田朝敷  (1865-1938)当時59歳
高嶺朝教  (1868-1939)当時56歳
真境名安興(1875-1933)当時49歳
伊波普猷 (1876-1947)当時48歳 このころ再度上京する。
・1926 「日本建築史要」天沼 俊一(1876-1947):日本初の日本建築史概説書

です。伊波普猷先生再度上京しました。

我思う

集めたものを少しづつ読んでみる。

「10+1 Photo Archives 106 沖縄」入江徹(琉球大学)

沖縄だからということで、地域主義的な建築物として存在させ、
「沖縄的」ということで思考をストップさせ、
議論や評論さえ起こらない状況を続けてはいけないと思う。

■要するに「思考停止」は良くないよというわけですね。

思考停止とは、思考とは、と考えるとまたややこしいので、
日常的にはこんな感じでしょうか。

自分の「思考停止ポイント」を発見する」
・偉い人の言ったこと
・いわゆる「正論」
・データ
・言葉の癖
吟味せずに繰り返すことでしょうか。

もうひとつ。
「沖縄らしい風景」池田 孝之(琉球大学)
――、これまでの多くの「らしさ」をめぐる議論は同じことを繰り返して論議し、
論者が代わればまた最初から同じような議論を始める、と言ったようにきりがない。
(中略)沖縄らしい風景づくりの最初は、おそらく、多くの人々が共通の認識を得るための
沖縄の風景に関する地域資源の情報を提供し、そして各人が自分でそれを確認し、
さらには自ら風景資源を発見することから始めていくことである。

■要するに勉強しなさいということですね。

両方合わせると、
もう少し「考えろ」「勉強しろ」というわけです。

また別にこんな風に言う人もいる

沖縄の人は
沖縄が大好き話が下手、本を読まない
。。。でも
沖縄の人、もっと自信を持って!
というわけですが、これも同様ですね。

以上が事実だとすれば、こうなってしまった原因は何なのか。
事実でないとすれば、なぜこういう議論が起こるのか。

「沖縄らしい」に関するおはなし

「沖縄らしさ」問題について少しづつ調べてみています。

きちんと網羅的に研究することはかないませんが、
手軽に入手閲覧できるもので、目についたものをいくつか集めてみました。
建築に関連するところから始めるのがやりやすいので、まずはいくつか。

■基本的な資料等=======================

●沖縄関連土木工学及び建築学文献目録 / 上間清,福島駿介 琉球大学 1982
:沖縄に関する土木・建築関係文献の整理
●「沖縄の集落に関する研究」等 / 坂本磐雄 1975-
:表題通りのものですが、実地の調査・分析が主、たくさんあります。

当然ですが、この他に
実測・復元等の歴史研究、気候特性に合わせた建築技術の研究、
現在の地域特性を研究した各分野の業績等が多数あるようです。

■建築・美術における「沖縄らしさ」に関する議論========

●近代における「琉球建築」の成立と地域社会 / 登谷 伸宏 京都大学 2008
 :伊東忠太らによって「琉球建築」が見いだされた経緯について
●大正期沖縄県下における公共建築の特性 「琉球」的なる風土との関係 / 川島 智生 神戸女学院大学 2008
:伝統的な琉球建築と現在のコンクリート建築との間にあったはずの「近代建築」の研究
●戦後沖縄の近代建築における地域性の表出 / 小倉暢之,琉球大学 2006
:米国式生産方式による技術的な必然と、本土復帰前に起こった所謂「沖縄らしさ」への関心について
●琉球政府立博物館における昭和42年(1967)日本古美術展について : その文化的政治的含意
喜屋武 盛也 沖縄県立芸術大学 2007

:米国、日本国政府による「沖縄らしさ」の陰画
●「夢の島」-現代沖縄における風景と観光-(地域計画特論テキスト)安藤徹哉 琉球大学 2007
:観光・オリエンタリズムと結びついた「沖縄らしさ」にかんする議論
●近代以降の紅型と伝統 : 「沖縄の色合い」をめぐって / 村松 彰子 沖縄県立芸術大学 2006
:伝統紅型技術の「本物らしさ」「沖縄らしさ」に関連した伝統創造論

■近代日本建築における「日本らしさ」に関する議論=========

●日本近代建築における表出史の研究 1- / 六反田 知恵, 中川 武, 中谷 礼仁 他 早稲田大学 1993-
:日本近代建築が美学・国学的議論から技術・美術論へ2元化する経緯などについて
●「帝冠様式」について / 橋寺 知子, 川道 麟太郎 関西大学 1990

■琉球アイデンティティに関する議論================

●沖縄アイデンティティの歴史的変動とその事情 Gregory Smits 2004
 :琉球・沖縄のアイデンティティは常に不安定で、時に応じた政治的アジェンダのために、「伝統」を作り上げる
●沖縄アイデンティティの十字路 ―「祖国復帰」と「反復帰」のイデオロギー的性格を中心に―
林 泉忠 琉球大学 2005

沖縄のアイデンティティーとは何か・JANJAN
●復帰運動における「沖縄的」アイデンティティと「日本的」アイデンティティの変容と相剋
石川, 捷治 九州大学 2001

●「沖縄トラウマ」の学際的共同研究に関するデータベース
南島人の精神分析 伊波普猷
琉球民族の精神分析 伊波普猷

■その他の関連(しそうな)議論======

『日本精神分析』柄谷行人 2002
松岡正剛の千夜千冊『日本精神分析』柄谷行人

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