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「建築をやっている」のこと

「建築をやっている」という表現があります。

建築設計などを行なっているという意味なのですが、一般にはどうということもない表現かもしれません。しかし、建築の設計を仕事としている、もしくは日本で建築の専門教育を受けた人にとっては非常に厄介な、これをめぐってグルグルと色々なことを考えてしまう、そんな言い回しです。検索するといろんな議論が見つかると思います。そのときに言う「建築をやる」とは、お伝えするのがやや難しいのですが、ハイレベルな建築に関わる、ということを概ね意味しているかと。まあ実に曖昧な表現なのですが、何だか気持ちが動いてしまう。

建築家という言葉も同様ですね。賞賛と非難、又は羨望を含む複雑な表現かもしれません。。。。などと考えているのは本人達の自意識過剰か。設計の仕事をされている方はもしかしたら経験があるかもしれませんが、他の分野の方からさりげなくそう呼ばれることがあって複雑な気持ちになるとか。

さて自分は「建築をやる」ことができているのかいないのか。などと考え始めてしまうとよくわからなくなって、まあいいじゃないか、ともかく目の前の仕事を一生懸命やろう。と、いうことに大抵なります。そこにこだわるのも不毛な気もしてウヤムヤにしてきたのですが、サスガにいい歳してこのままというのも気持ちが悪いので、この問題にケリをつけておきたい。

と思い、色々参考にしながら考えていたら、あるじゃないですか。

『文化生産と商業主義 : 分析フレームとしての「演劇生産のエコロジー」』佐藤 郁哉 1996

これは主として演劇を扱いながら、文化・芸術と商業とについて論じたもののようですが、上記のような「建築にまつわるモヤモヤ」にも解説を与えてくれるような気がします。結局、このモヤモヤは一つに建築が芸術と言えるかどうかに端を発して拡がっているのかも知れません。日本の建築史上も(今もどこかで?)、度々この「建築が芸術かどうか」が論争の種になったようです。

随分簡単なようですが、でももうこれで気持ちに決着がついた。漠然とした呪縛から解かれました。特に上記論文p72(PDFで6ページ目)後段の以下の箇所で憑き物が落ちました。いや、キチンと検証し、言葉にしてあるということが、こんなにも晴れやかな気分にしてくれるとは。気持ちの良い先輩にスパッと叱られたようで、久しぶりに心に響きました。こういうのを学問の意義というのでしょうか。

 以上の一連の研究は、商業主義の問題を中心として芸術と商業の関係性について検討する際には、芸術、商業という概念について、それぞれを抽象的で総称的なカテゴリーとして論ずることがほとんど無意味であることを示唆している。すなわち、芸術にしろ商業にしろ、それぞれ種々雑多な活動を含むだけでなく、その意味付けも多様であり、したがって、「芸術(一般)と商業(一般)が果たして対立する原理か否か」という問いは全くと言っていいほど意味をなさないのである。商業主義の問題について検討するには、どのようなタイプの芸術のどの側面が、商業的なるもののどのような側面と実際にいかなる関係を持っているかという問題を明らかにするとともに、それぞれどのような意味で「芸術」ないし「商業」と呼ばれているのかを吟味していかなければならない。

また、同論文Ⅱ章以降がいわば本論だと思いますが、非常に興味深く読みました。「演劇」または「芸術」を「建築」に置き換えて、そのまま読んでみたいという誘惑に駆られますが、そういうことをしてはいけないとも書いてあるようです。ご注意を。でも、「建築をめざす」みたいなお若い方は早めにお読みになることを勧めます。ワタクシがそうだったように、この件、気持ち悪くハマっている人、少なくないと思います。

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